1878年冬、開拓期の札幌を震撼させた日本史上最大級の悲劇「札幌丘珠事件」の全貌と歴史的背景
1878年(明治11年)1月、当時の北海道・石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現在の札幌市東区丘珠町)で、日本開拓史における最も凄惨な熊害事件の一つである札幌丘珠事件が発生しました。冬眠を妨げられた巨大なエゾヒグマが猛吹雪の中を彷徨い、開拓民の小屋を襲撃したこの惨劇は、死者3名、重傷者2名(一連の初発の遭遇を含めると死者4名)を出す大惨事となりました。
本記事では、事件の引き金となった歴史的背景から、凄惨な被害の実態、そして札幌農学校での解剖や標本化に至るまでの顛末を、当時の公文書や歴史資料に基づき徹底的に解説します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:円山で猟師に撃たれて冬眠を破られたエゾヒグマが、飢えと怒りから市街地を抜け、丘珠村の開拓民・堺一家の小屋を深夜に襲撃した。
- 要点2:開拓民の夫と幼子、雇人が犠牲となり、妻が頭皮を剥がされるなどの大重傷を負う日本史上4番目の大規模熊害となった。
- 要点3:討伐されたヒグマは札幌農学校へ運ばれて解剖され、その遺体や一部は北海道大学植物園に歴史的資料として継承された。
1. 札幌丘珠事件の引き金:冬眠を破られた「穴持たず」の狂気
事件の発端は1878年(明治11年)1月11日、札幌の円山山中にさかのぼります。当時、爾志通(現在の札幌市中央区南2条)に住んでいた猟師・蛭子勝太郎が、冬眠中のエゾヒグマを発見して仕留めようと試みました。しかし、これを撃ち損ねたことで熊に逆襲され、猟師自身が命を落とす結果となりました。
冬眠の平穏を突如として破られたエゾヒグマは、極寒のなか「穴持たず(冬眠穴に入りそこねたり、途中で目覚めたりした個体)」となり、飢えと殺気立った状態で札幌郊外へと姿を現しました。警察や開拓使による駆除隊が組織され、雪上の足跡を頼りに追跡が続けられましたが、猛吹雪のために見失ってしまいます。この飢えた巨獣が迷い込んだのが、当時の深い森林地帯に囲まれた丘珠村でした。

2. 凄惨な被害の実態:堺一家の小屋を襲った悪夢の夜
1月17日の深夜、猛吹雪が吹き荒れるなか、件のエゾヒグマは開拓民である堺倉吉(当時44歳)・リツ(当時36歳)夫婦が暮らす炭焼きの拝み小屋を襲撃しました。室内に響いた異変に気付いた倉吉が筵(むしろ)の戸を押し開けた瞬間、熊の強烈な一撃を受けて昏倒しました。
妻のリツは、幼い長男・留吉を抱いて必死に外へ逃れようとしましたが、逃走の最中に後頭部にヒグマの爪を受け、頭皮を剥がされるほどの重傷を負い、我が子を雪原に落としてしまいました。リツは命からがら伏籠川の対岸にいた雇い人・石澤定吉の元へ辿り着き救いを求めましたが、その間にもヒグマは雪上の赤子や夫を襲い続けていました。
北海道公文書館所蔵の『開拓使公文録』などの一次資料に基づく検証では、この丘珠村の惨事における犠牲者は「死亡:堺倉吉、留吉、雇人・酉蔵」「重傷:リツ、雇人・石澤定吉」であり、初発の円山での猟師の死者を合わせると、犠牲者はさらに膨れ上がる日本の熊害史に残る大惨劇となりました。
3. 札幌丘珠事件の経過と被害データ一覧
明治初期の開拓地で発生した一連の経緯と被害の全貌を、信頼性の高い歴史的記録に基づいて以下の表にまとめます。
| 時期・日時 | 発生した出来事・場所 | 被害の実態と公式記録 |
|---|---|---|
| 1878年1月11日 | 札幌・円山山中での遭遇 | 猟師・蛭子勝太郎が冬眠中のヒグマを撃ち損ねて逆襲を受け、死亡。 |
| 1878年1月17日深夜 | 札幌郡丘珠村・堺一家の小屋襲撃 | 猛吹雪の中、開拓民の堺倉吉と長男・留吉、雇人・酉蔵が死亡。妻リツらが重傷。 |
| 1878年1月18日昼 | 丘珠村周辺での討伐 | 開拓使の駆除隊(佐々木直則ら)によって、体長約1.9mのオスの成獣ヒグマが射殺される。 |
| 事件直後~以後 | 札幌農学校および植物園での顛末 | 遺体が農学校で解剖され、その後は北海道大学植物園に歴史的標本として収蔵される。 |

4. 札幌農学校での解剖と、学生たちの知られざる顛末
村民を恐怖のどん底に陥れた加害ヒグマは、体長約1.9メートル(6尺3寸)に及ぶオスの成獣でした。札幌警察署の前で晒された後、当時の最先端科学を学ぶ場であった札幌農学校(現・北海道大学)へと運ばれました。
当時の記録や『恵迪寮史』などの文献によると、ペンハロー指導教授の指導のもと、学生たちによって解剖実習が行われました。その際、好奇心旺盛な学生たちが教授の目を盗んで熊の肉片を切り取り、小使室の炭火で焼いて「熊肉の味」を試そうとしたという逸話が残されています。しかし、口に入れた途端に胃の内容物から被害者のものとみられる毛髪などが発見され、悪臭と凄惨な現実を目の当たりにした学生たちが悲鳴を上げて青ざめ、口に入れたものを慌てて吐き出したというシュールかつ戦慄のエピソードが伝えられています。
5. 歴史的背景と「穴持たず」がもたらした教訓
なぜ、これほどの惨事へと発展してしまったのでしょうか。背景には、明治初期の急激な開拓政策と、森林の伐採による野生動物の生息環境の急変がありました。当時の丘珠村は、タマネギ栽培で知られる現代の姿とは異なり、古木が鬱蒼と茂る大森林地帯であり、村民は木炭の製造で細々と暮らしていました。
冬眠中の動物に対する知識や装備が十分でなかった当時の開拓民にとって、人里のすぐ近くに潜む「穴持たず」のヒグマは、防ぎようのない天災のような脅威でした。この事件の教訓や解剖学的調査の記録は、その後の北海道における野生動物との共生や、鳥獣管理・安全対策の原点として、現代にも重い歴史的教訓を投げかけています。

【札幌丘珠事件】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:札幌丘珠事件はいつ、どこで発生したのですか?
A1:1878年(明治11年)1月11日から18日にかけて、当時の石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現在の札幌市東区丘珠町)で発生しました。
Q2:被害の規模はどれくらいだったのですか?
A2:円山での猟師の犠牲を含め、最終的に死者4名、重傷者2名を出しました。これは日本史上でも有数の大規模な熊害事件として記録されています。
Q3:事件を起こしたヒグマの遺体や資料は現在どうなっているのですか?
A3:射殺されたヒグマは札幌農学校で解剖された後、北海道大学植物園(博物館)に北海道最古級の剥製および歴史的資料として胃の内容物等とともに収蔵・継承されています。
まとめ:歴史の教訓を現代の防災・野生動物対策にどう生かすか
札幌丘珠事件は、単なる過去の凄惨な怪異譚ではなく、急激な開拓と自然破壊のなかで人間と野生動物が直面した深刻な衝突の歴史です。冬眠を妨げられた「穴持たず」のヒグマがもたらした被害の実態や、当時の行政・研究機関の対応の記録は、現代の都市近郊における鳥獣害対策や安全確保を考える上でも、決して風化させてはならない貴重な一次情報を含んでいます。歴史の事実を正しく直視し、過去の教訓を現代の生活圏における防災意識へとしっかりと繋げていくことが求められています。
Sources:
1. 【札幌・東区クマ襲撃から5年】“全身140針”の重傷を負った男性 —
2. むしられた頭皮…開拓民を震撼させた「丘珠ヒグマ事件」 —
3. #152 北大にヒグマ出没!? – いいね!Hokudai - CoSTEP —
4. 札幌丘珠事件 - Wikipedia — (出典: 札幌 丘珠 事件(Yahoo!ニュース))