ジャイアント馬場の死因となった病気の真相と晩年の闘病生活の全貌
日本プロレス界の象徴として昭和から平成にかけてリングに立ち続けた「ジャイアント馬場」。その圧倒的な巨体と優しげな人柄、そして「16文キック」をはじめとする数々の名技でファンを魅了し続けた不世出の英雄です。しかし、1998年冬からの突然の体調不良から入院、そして1999年1月に惜しまれつつもこの世を去ったニュースは、日本中に大きな衝撃を与えました。
本記事では、公式ファクトや側近たちの証言に基づき、ジャイアント馬場の死因となった病名や晩年の闘病の経緯、生前最後の試合から最期を迎えるまでの知られざる真相を詳しく解説します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:ジャイアント馬場の公式な死因は転移性肝がん。1998年末の体調不良から精密検査を経て病気が判明した。
- 要点2:生前最後の試合は1998年12月5日の日本武道館大会。異変を察知した妻の元子や側近たちの説得により電撃入院となった。
- 要点3:闘病生活や病状の深刻さは妻の意向により極秘とされ、晩年は家族やごく一部の側近に見守られながら静かにその生涯を閉じた。
1998年冬:異変の兆しと生前最後の試合までの経緯
ジャイアント馬場が身体の異変を最初に公の場で強く示したのは、1998年11月30日の宮城県スポーツセンター大会の後のことでした。この日、試合後に体調不良を訴えた馬場は、翌日のオフを挟んだ12月2日の松本市総合体育館大会において、会場入り直前で急遽欠場を余儀なくされました。
当時の報道や側近で運転手も務めていた和田京平レフェリーの証言によれば、普段はどれほど体調が優れなくても弱音を吐かずにリングに上がり続けた馬場が、この時ばかりは同行していた妻の元子の説得にも応じず「無理だと言ったら無理だ!」と頑なに会場入りを拒否したといいます。このただならぬ様子に、周囲のスタッフらは「ただごとではない」と深刻な異変を察知しました。
その後、元子と専属秘書である仲田龍の付き添いのもと、松本から特急電車で都内へ引き返した馬場は、東京都新宿区の東京医科大学病院を受診します。受診時、馬場は仲田の介添えがなければまともに動けないほどの状態だったと伝えられています。しかし、プロレスラーとしての責任感からか、続く12月3日のツインメッセ静岡大会の欠場を経て、同月4日の千葉公園体育館大会ではいったんリングに復帰。そして、年内興行の最終戦となった12月5日の日本武道館大会で行われた第3試合、馬場&ラッシャー木村&百田光雄対渕正信&永源遙&菊地毅戦に出場しました。この試合が、馬場にとっての「生前最後の試合」となりました。

精密検査による「転移性肝がん」の判明と入院
本来であれば、馬場は毎年恒例となっているオフのハワイでの静養を兼ね、1998年12月13日にWWF(現:WWE)からの招請を受けてカナダ・バンクーバーのPPV大会を視察するスケジュールを控えていました。しかし、同月7日に東京医科大学病院で受けた精密検査の結果、医師からドクターストップがかかり、そのまま電撃入院を余儀なくされました。
この詳細な検査の段階で、すでに「転移性の肝がん」が判明していたとされています。翌1999年の年始に予定されていた「新春ジャイアントシリーズ」の欠場が発表され、年末年始にかけて病状自体は比較的安定していたものの、並行して腸閉塞の症状を引き起こしていました。そのため、年が明けた1999年1月8日には手術を受けることになりました。当時のメディアに対しては「癒着性腸閉塞のため都内の病院で手術を受け、術後の経過は良好である」と公表され、多くのファンや関係者は快癒を信じて疑いませんでした。
術後のしばらくの間は病室内で普段通りの会話もできており、和田京平など見舞いに訪れた関係者から、自身が欠場しているシリーズの興行状況や団体の様子などの報告を受けていたといいます。
【ジャイアント馬場・闘病から最期までの主な経緯】
| 時期 | 出来事・病状 | 備考・公式発表 |
|---|---|---|
| 1998年11月末〜12月上旬 | 地方巡業中に体調不良を訴え、都内の病院を受診。12月5日の日本武道館大会が生前最後の試合に。 | 当初は疲労や体調不良として対応。 |
| 1998年12月中旬 | 東京医科大学病院で精密検査を受け、ドクターストップによりそのまま入院。転移性肝がんが判明。 | ハワイ静養や海外視察の予定をすべてキャンセル。 |
| 1999年1月8日 | 腸閉塞の症状により手術を実施。 | メディアには「癒着性腸閉塞の術後経過は良好」と公表。 |
| 1999年1月24日 | 61歳の誕生日(1月23日)の翌日に病状が急変。 | 集中治療が開始され、意識が低下するなど急激に悪化。 |
| 1999年1月31日朝 | 東京都内の病院にて永眠。享年61。 | 妻の元子、姪の幸子、実姉、和田京平、仲田龍の5人により静かに看取られる。 |

病状の急変と最期の瞬間、そして延命治療を巡る葛藤
手術後、回復に向かっていると伝えられていた馬場でしたが、1999年1月23日に61歳の誕生日を迎えたその翌日である24日、突如として病状が急変しました。病院側による懸命な集中治療が行われましたが、その後は意識が低下するなど病状の悪化に歯止めがかからず、同月31日の朝に危篤状態に陥りました。
当時、妻である元子の意向により、側近以外の外部には馬場の病状や生命の危機に瀕している状況が一切漏らされないように徹底されていました。そのため、全日本プロレスの取締役に就任していたジャンボ鶴田や三沢光晴をはじめ、団体の重鎮であった百田義浩やジョー樋口といった中核メンバーでさえもその深刻な状態を知らされておらず、文字通り「蚊帳の外」であったと後年の回想などで語られています。
臨終に際しては、担当医師から薬物などを用いた延命治療の継続が提案されました。しかし、妻の元子は「馬場さん、頑張ったよね。かわいそうだから、もうゆっくりさせてあげましょう」と、苦痛を伴う延命を行わずに自然な形で送る意向を示しました。これに対し、同席していた姪らが延命を主張して激しく対立する場面もあり、元子が声を荒げて言い返すなど、病室内は緊迫した空気に包まれていたといいます。最終的には元子の強い意向や状況を鑑み、穏やかな最期を迎えることとなりました。
葬儀・戒名、そして永遠の眠りについた場所
1999年1月31日に亡くなった馬場の葬儀は、同年2月2日に自宅での密葬という形で執り行われました。全日本プロレスの選手やスタッフのほか、当時の新日本プロレス社長であった坂口征二や藤波辰爾といった他団体の関係者も弔問に訪れ、偉大な巨人の旅立ちを見送りました。その後、遺体は桐ヶ谷斎場にて荼毘に付されました。
授けられた戒名は「顕峰院法正日剛大居士」。生前のスケールの大きさと、リング上で貫いた強さ、そして人柄を彷彿とさせる立派な戒名が刻まれました。
現在の墓所は、兵庫県明石市の本松寺にあります。2018年に亡くなった妻の元子とともに同じ墓に眠っており、墓地には馬場のリングシューズを実物大で再現したモニュメントや、生前親しまれた愛嬌のあるイラストが描かれたプレートが設置されています。現在でも全国から多くのプロレスファンが足を運び、昭和のプロレス黄金時代を築いた英雄の足跡をしのんでいます。

【ジャイアント馬場死因】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:ジャイアント馬場の正式な死因は何ですか?
A1:公式発表および医療的経緯に基づく死因は「転移性肝がん」です。1998年12月の入院時の精密検査で発見され、闘病の末に1999年1月31日に亡くなりました。
Q2:馬場さんが最後にリングに立った試合はいつですか?
A2:生前最後の試合は1998年12月5日に日本武道館で行われた大会です。馬場&ラッシャー木村&百田光雄対渕正信&永源遙&菊地毅の試合に出場しました。
Q3:なぜ病状や入院の事実が直前まで伏せられていたのですか?
A3:妻である元子の強い意向により、団体の混乱を防ぐことや故人のプライバシー、そして無用な憶測を呼ぶことを避けるため、ごく一部の側近を除いて病状の深刻さは外部に一切明かされませんでした。
まとめ:昭和・平成を駆け抜けた巨人の足跡
ジャイアント馬場の死因となった転移性肝がんと晩年の闘病は、本人のプロレスラーとしての強いプロ意識と、極秘裏に支え続けた家族や側近たちの覚悟の中で進められました。どんなに体調が悪化してもファンの前では気丈に振る舞い、最期まで「プロレスラー・ジャイアント馬場」としてのプライドを貫いたその生き様は、四半世紀以上の時を経た現在でも多くの人々の記憶に深く刻まれ続けています。日本のプロレス史に燦然と輝くその偉大な足跡は、今後も色褪せることはありません。 (出典: ジャイアント 馬場 死因(Yahoo!ニュース))